大事なことは誰かに伝えたくない、と思い始めたのはいつからだっただろう。
誰かというのは、PCの、スマホの、画面の向こうにいる誰かは含まれない。誰かとは、名前を知っている、顔を知っている、性格もなんとなく分かっている、あなたのことである。
例えば映画やお芝居を見て、深く思ったことがあったとする。
見終わった後に感想や所見を言い合うとき、わたしはこの深く思ったことを言わない。言わないとしているわけではなく、勝手に言えなくなってしまっているのだけど。
わたしのこの思いは、わたしだけのものであり、誰かに、あなたに渡したくない、とわたしは深く思うのだ。
ここに書いていることも深く思っていることなのだけど、あなたはここに実在しないので、わたしはペラペラと言葉を打つことができる。
思えば、日々の生活で色々思うところはたしかにある。あなたに言いたいこともある。しかしわたしはあなたにそれを言えない。
どうして言えないのか。
あなたの拒絶を想像してか、あなたの困った顔を想像してか、伝わらないもどかしさを想像してか、自己防衛か、そのどれでもあるような気がするし、どれでもないような気もする。
言えなかった言葉はどこへ行くのか、その行き先を最近はよく考える。
身体のどこかへ沈澱しているのであればそれは素敵なことだな、と思う。
しかし発しなかった言葉は別にこの世の中に必要のない言葉で即座に消えてしまうのであれば、こんなに虚しいことはないと思う。
わたしは意見するのが比較的得意な方である。会議でも思ったことは口にするし、友人と喋っていても、はっきりと物を言う。
だからきっと周囲からわたしは言いたいことを言えていいなあ、と思われてると思う。
勿論、言いたいことは言っている。
しかし、言いたいことを言ったあとの帰りの電車の中で、言わなかった言葉がずんと積もっていることに気付く。
誰かと向き合わなきゃいけない時に圧倒的にわたしに足りないのは、この深く思ったことを言い表すことなのかもしれない。
果たして言い表すことが必要なのか、不要なのか、それは分からない。
分からないけど、足りないと思う。
言わなきゃいけない言葉、言いたい言葉、伝えたい言葉、言わなくてもいい言葉、言えない言葉、言いたくても言えない言葉。
言わないという選択をしてから行く先を想像したいと今は思っている。