ヴィヴィッドの記録

日々感じたこと、考えたことを記録してます

今更2021年の振り返り

 2021年という字面の近未来感、すごい。でも現実は全然近未来感ない。いやでも、このウイルスによる感染症の世界の混乱はある意味近未来感があるかもしれない。

 2021年はどんな一年だったか振り返ろうと思う。

 思うが、全然記憶がない。気がついたら12月だった。

 去年立てた目標を見て、あ、そんなんだったか。忘れてたわ。となるくらい適当に生きていた。でもこの状況では健康に生きているだけでハッピーなのだ。

 

(1)違和感をちゃんと口にする
(2)怒りたい時に怒る
(3)英語を勉強する
(4)物を買う
(5)身体を作り直す
(6)本を読む

 

 

(1)違和感をちゃんと口にする

 達成率:10%

 そもそもこれってすごく難しい目標設定だと思う。違和感、が本当に違和感なのかを確かめないといけない。もしかしたらそれは忌避感かもしれないし、嫌悪感なのかもしれない。それによって口にすべきかどうかも変わってくる。

 10%としたのは、今年は身体についての違和感は少しだけ口に出来たと思うから。体を動かしていて、あれ?と思うことがあっても今までは無視してきた。結果、怪我および慢性的な痛みに繋がっていた。でもやっぱり自分の感覚を口にすることにとても苦手意識がある。


(2)怒りたい時に怒る

 達成率:0%

 無理!!!!!!!!!!

 沸点がまず高い!そして達するのが遅い!気づいた時には誰もいない!無理!!!解散!!!

 妹はよく怒ってる。すごい。どうして姉妹でこんなに違うのか。駅で肩をわざとぶつけてきた人に「おい!」と声をかけて、その人が逃げるから追いかけたこともあるらしい。私ならぶつかられたことに気づいた時には誰もいない。


(3)英語の勉強をする

 達成率:0%

 やってない。Google翻訳に頼ってる。それにしても某SNSの翻訳機能は英語が全然出来ない私が見ても変だとわかる。


(4)物を買う

 達成率:50%

 高いマットレスを買った。と言っても3.5万円くらいだけど。買うまでめちゃめちゃ時間がかかったけど、結果買ってよかった。硬めで腰が沈まなくて、起きた時の腰痛がだいぶ軽減された。家族が寝たところ硬すぎるという意見もあったので、お試しするのが吉です。 

 

メッシュ・ウィング - マニフレックス公式オンラインストア

 

ジャケットが欲しかったので、オールユアーズのジャケットを買った。着心地が良くて、軽くて肩が凝らないし動きやすいので重宝している。腕が長いためそれに合わせて買ったら丈が長くて、それが少し残念だけど仕方ない。オーバーサイズで着ていると思うことにしている。

「着たくないのに、毎日着てしまう」ジャケット/ オリーブ – ALL YOURS OFFICIAL ONLINE STORE


あとは好きなバンドのグッズばかり買っていた。ロンTが飽和状態。在宅ワークのお供です。


(5)身体を作り直す

 達成率:95%

 3月から近所のピラティススタジオに通い(週2〜3回)、そのほかに週1でヨガレッスンを受けている。ダンスのレッスンは時々行ったり行かなかったり。その甲斐あってかかなり身体が変わった感覚がある。体重計が電池切れのため、実際の体重は分からないが多分痩せた。久々に腹斜筋が見えるようになり、鎖骨が綺麗に見えて、家族曰く猫背がマシになったそうだ。両方の股関節に数年前股関節唇損傷という診断名が下っており、長時間歩いたり、運動をしたりすると痛みがあったが久しくその痛みを感じていないので、これもまたよい付き合い方を身体が学習したのだと思う。そもそもの股関節の問題なのか使い方の問題なのか分からないが時々不思議な音や詰まりがあるのは変わらないため、よく観察しこの体と付き合っていかなければならない。

 いま直したいのは胸椎の硬さ。


(6)本を読む

 達成率:70%

 たくさんは読めていないが例年よりは読めた気がする。

 今年読んで良かった本たち。

 

・水中の哲学者たち

水中の哲学者たち | 永井玲衣 |本 | 通販 | Amazon

 Spotifyポッドキャストなどで話しているところを聴いて素敵な喋り方、考えの持ち主だなあ、と思い購入。哲学対話、難しそうだけど楽しそうだ。学生の時こんな時間があったらわたしの学生生活はもっと思い出深いものになっていたかもしれない。

 

・幕末の青嵐

新選組 幕末の青嵐 (集英社文庫) | 木内 昇 |本 | 通販 | Amazon

素晴らしいので幕末好きに読んでほしい。様々な視点で語られる物語。歴史上の人物、というより血の通った人物、団体に見えてくる。

 

・地球星人(村田沙耶香)

地球星人 (新潮文庫) | 村田 沙耶香 |本 | 通販 | Amazon

 この人の小説は結構読んでいるが、一番好きかもしれない。これまでの世界の集大成のようだった。


小説以外も沢山読みたい。


 全体的に達成率が低いが、もう健康で生きてるだけでOKなのでヨシとする。

 

第四クォーター

2021年10月~12月の記録

 

見たもの

LITE Stay Close Session

 人を集めることが困難なここ最近。ライブハウスでライブなんてとんでもないということでなかなか生演奏が見られなかったバンドの一つ。インストだから演者の飛沫は飛ばないんですけど。

 このコロナウイルスの一連の騒動で様々な活動が制約されているなか、中々精力的に活動していて、その活動が集約されたような取りまとめのようなライブだった。フェスか?と思うくらいゲストが多いし。

 わたしの頭じゃ全く理解できない、リアルタイムオンラインの演奏がこのライブのハイライトだった気がする。沖縄に住む方がボーカルとして参加。レイテンシーなく、完璧な演奏を終えた瞬間、なんかすごい技術の進歩を見てしまった、という気持ちになった。

 嫌なことも多いこの2年だが、良いことも生まれているんだよなあ。

 

This is ACIDMAN

 ワンマンライブはいい。セトリが予想できないのはいい。そして1席空けて隣、じゃないライブはいい。来年は周年なので、できる限り足を運びたいがツアーもライブも何のお知らせもない。今のところ主催フェスだけだ。早くぎゅうぎゅうのライブハウスでめちゃくちゃになりたい。

 

NUMBERGIRL 我々は逆噴射である

 念願のナンバガ。知った時には解散していたため、再結成されても見るまでは存在を信じないと決めていた。

 存在した。

 空気を割いて、肉体を刺すようなギターの音。ギターの音を聞いた瞬間、本物だ〜!と思い、嬉しさのあまり泣いた。

 なぜこのバンドを好きになったのか、全然覚えていない。だが、よく聞いていた頃(高校生の頃)の見ていた風景がたくさん見えて、それが懐かしく、恥ずかしく、そしてその時抱いていたような焦燥感のようなものを想起させた。

 これぞ邦ロック。

 

聴いているもの

 邦ロックばっかり聴いてるな。仕方ない、洋楽はロックが下火なんだもの。



雑記

働く

 思いつきで転職活動をしている。9月くらいに今まで以上に自暴自棄な思考になったため、このままこの会社にいたらいつか自分の案件を燃やす(炎上という意味ではなく放火という意味だ)と思い、慌てて転職サイトに登録した。転職サイトに登録したつもりが何故か転職エージェントサービスに登録されていて、書類を作らされ、面談をし、求人が送られてこられ、申し込めと圧力をかけられている。

『今までやってきた仕事のやりがい、ってなんでしたか?』

『これは大変だったけど、良かったな、ということありましたか?』

『これからどういうキャリアを積みたいですか?』

『どんな仕事をしたいですか?』

『どうして転職したいのですか?』

 全部に答えられない、私。放火しそうで、転職した方がいいと思って、なんて言えない。そもそも、やりがいってどういうことを示すんですか、なんて言えない。毎日会社に行くのが、同じ人と顔を合わすのが大変です。お給料を貰えた時、良かったなって思います。

 こんな私を雇い続けているいまの会社にいた方が安泰なのではないか、私の大好きな自由な時間は確保出来ているし、有給取得できてるし、いやでも火を放ちそうだからな、という思考をずーっとループさせている。

 本当だったら自分のやりたいことを仕事にしたほうが幸せだ。だって毎日おおよその時間は働いているし。そんなこと分かっている。就職活動をしていた大学生の頃から、大学受験をしていた頃から何も変わっていない。わたしはわたしの好きなものを嫌いに、嫌になるのが恐ろしい。だから一定の距離を取り、愛でている。このまま一生そうだろうと、少し諦めている。

第三クォーター

2021年7月~9月の記録

 

 

 

見たもの

アメリカン・ユートピア

 話題になっているので観に行って見た。トーキングヘッズもデヴィッドバーンも全然知らないが、概ね楽しめた。照明と踊りが特に良かった。色温度高めの照明と衣装の灰色のバランスが素晴らしく、美しく、舞台を囲んでいる鎖のようなものとのバランスもちょうど良かった。踊りはなんか変で、日常を延長した動きが多く、大変好みであった。

 様々な国、地域出身の方が隔てなく演奏し、踊る。それは美しく、素晴らしく、当たり前だったはずの風景。しかしその美しい一幕に私たちがいないことばかりが途中から気になって気になって仕方がなかった。

 

イン・ザ・ハイツ

 妹の熱烈な勧めで観てきた。アメリカンユートピアに引き続き、歌って踊る、社会問題系。

 移民のことはなかなか理解が及ばないところがあるな、と思ってしまう。それから人種のことも。わたしにもきっと関係のある問題なのだろう、でも実感のない問題は実感のある問題よりもずっと後回しにされる。色々な問題に気を配れるくらいの頭のキャパシティが欲しいが、そもそものキャパシティがない挙句、問題になってない問題ばかり気になってしまうタチだ。

 そんなことは置いておいて、ラテン音楽を幼少期から聴いていたので大変耳馴染みがよく、映画館の椅子の上で少し踊っていたかもしれない。英才教育の賜物である。ちなみにラテン音楽のほか、レゲエも流れている家庭だった。

 

 

国立劇場開場55周年記念 9月 文楽公演

 はじめての文楽

 テレビでやっているのを観てなんか面白そうと思うこと早数年。やっと観に行けた。難しいことは全然分かんないけれど大変楽しめた。

 そもそも人形を3人で動かしているのにも関わらず、謡手が1人ってバランスがおかしくないか?もうその時点で面白い。3人で動かしているのに1人だけ顔が出てるのも面白い。お前誰、感。でもその顔が段々と意識されなくなって人形だけ浮かび上がるのも面白い。あと人形の足が面白くてずっと観ていた。あれはすごい。ずーっと面白い!!って思いながら見れて最高だったのでまた観に行きたい。

 

ほかにも色々見たような気がするが、8〜9月は仕事に忙殺され、ほぼ記憶がないため省略せざるを得ない。なんとも不健康、不衛生な日々。

 

聴いているもの

Nothing But Thieves のEPが最高。これぞUKロック。揉みくちゃになれるようになったら来日してほしい。

 

 

雑記

わかる言葉で書く

 これは何回も書いていることだし、これからもずっと事あるごとに書くのだろうけど、『わかる』言葉で自分の立場や意見を簡単に表明してしまうことにやはり抵抗感がある。

 ここでの『わかる』というのは、文法的に理解できる、その立場に共感する、あるいは想像がつく、理解できる、という意味もあるのだが、その言葉を読めば何を言わんとしているのか分かった気になる(あるいは理解できる)ということである。言葉と理解の距離が短い言葉、というべきだろうか。

 

読み書き、喋り

 読み書き、喋り、が上手くいかない。頭の中がとっ散らかって、物事がまばらになって、空っぽみたいに感じられる。考えていることが言葉に、文章にならない。おしゃべりをしていると吃ったり、噛んだり、話が飛んだりする。困っている。仕事に支障を来たしている。前にも書いたけれど、頭にモヤがかかったみたいな、上手く血液がいってないみたいな、そんな感じの症状が一歩進んでいるみたいだ。

 

夏の話

 今年で5回目のグループ展が終了した。去年も実施していたこともあり、感染症対策については去年を踏襲、および一部強化した。会期中、誰も具合が悪くなることなく終えられたのはとてもよかった。(去年は私が酷い熱中症でダウンした。いま思い返すと救急車呼ぶレベル)

 この感染症の状況と連日の豪雨により平年よりもかなり来場者数は少なく、感染対策的な意味で言うとかなりラッキーだった。ラッキーだったが、もちろん可能性はあるので、二週間はやきもきしながら過ごすのだろう。終わったのに終わった!と喜べないのはなかなか辛い。この状況になってからも時々ライブや演劇などに行っているため、2週間やきもきタイムには慣れているがかなり精神をじわじわと蝕み、具合が悪いような気がしてくる。


【上記文章を書いてから2週間経過】


 終わってから2週間が経った。メンバーにも、来場した知り合いにも感染者はいない。ギャラリーから連絡も来ていないからきっと来場者にもいないのだろう。ほっとした。今この時に集まること、誰かを集めることはリスキーだ。そんな当たり前のことをひしひしと感じた。開催の1週間前には、2週間前にはきっとこんなにひしひしと感じていなかった。各方面から賛否両論、悲喜交交、諸々言われていたオリンピック、フジロックパラリンピック、数々のイベントを見たせいだと思った。いつまでこんなひしひしとじわじわとなにかを蝕んでいくような時を過ごさなければならないのだろう。来年は、という言葉を口にしながら、来年に向けて動き始めている。

 


 過去5回もやっていると自分の正攻法みたいなものが見え始めてしまっていてそれに甘えてしまう私がいる。深耕ができていればいいのだが、今年は深められず、ぼんやりとしたまま展示をしてしまい、少し残念なことをしてしまった、と思っている。日常からぼんやりし過ぎていた。

 何になるわけでも、お金になるわけでも(むしろ入場料を取っていない、作品を売るわけでもないので赤字でしかない)、去年今年で言えばリスキーなだけなのに、こんなことを続けている。でもこれってもしかしてとても尊い営みなのでは?と密かに思ってる。思いすぎると重くなって何も出来なくなるので基本そんな思いは忘れているが。生活のために働き、お金のために働き、働くために働いているような訳の分からない毎日の中で、なんにもならない物を作ろうとし、思考し、試行する。それで出来によっては反省したり、猛省したりする。何にもならないのに。生きていると『何かになる』と思ってしまうことが多すぎる。本当は何にもならないのに。何にもならないと分かっていながら何にもならない事をする、これって楽しく生きるのに必要なんじゃないか。

 それでいて友人たちの作品は何にもならないわけではない。美しいと思えたり、かわいいと思えたり、思慮深いなと思えたり、なんてロマンチックなんだろうと思えたり、日常が一瞬だけドラマチックに見えたりする。

 日々何かになると思ったり、何かする、と思い過ぎているのかもしれない。結果、何かになっているだけなのに。

 日々の生活に流されず、諦めず、毎年作品を共に作ってくれるタフな友人たち、ありがとう。来年も楽しみにしている。

 


 今回の作品は小さめの写真と言葉とプレイリスト。私の想像の中の誰かが聞いていそうなプレイリストを作ってみたいな、と思ったのが発端だ。そしてそのプレイリストを聴いている想像上の人物Aが見ている風景や日記を起こせたら素敵だな、と思って作品を作り始めたのだが、まずはじめの作業で躓いた。私は私の音楽の守備範囲を広く見積り過ぎていた。そもそも私たち世代の音楽の聞き方は大体能動的だ。興味のあるアーティストや誰かがかっこいいと言っていたアーティストのCDをTSUTAYAで借りてWALKMANに入れて聴いていた学生時代。もうその選定で私というフィルターがめちゃめちゃかかってる。その何十?何千?何万?曲の中で人物Aのプレイリストを作ったところでそれはもう私なのだ。

 そんな感じでプレイリストに躓いていたら夏が近付き、おまけに仕事も忙しくなり、プレイリストを作ってないのに写真と言葉を作り始めるというまさに本末転倒な作品の作り方となってしまった。が、それに合わせた方が私から離れたプレイリストが作れたような気もしている。

 毎年毎年、計画性というものとやる気とひらめきというもののすり合わせをしている。気分で作品は作りたくないが、その気分込みで計画を立てないと毎度同じ結果だな、と反省している。


 来年、の話は進んでいる。

 来年、もっと自由に動けたらいいな、とじんわり思っている。

 

 

 

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 使わなかった写真。誰かの通学路。


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 使わなかった写真。ごちゃごちゃしている。

 

第二クォーター

2021年4月〜6月の記録

見たもの

 

el tempo

そもそもどんな音楽かというのは公式el tempo(エル・テンポ)

より引用。

 

アルゼンチン、ブエノスアイレス発。「Rhythm with Signs」は、パーカッション奏者でありプロデューサーとしても活躍するサンティアゴバスケスが開発したサイン・システム。100種を超えるハンド・サインを「コンダクター」が操り指示を出すことで、複数の奏者による即興演奏を可能とする。観客が放つ空気を感じ取り表現する為、一期一会なセッションを創造するのが、このサイン・システム最大の魅力。

で、このコンダクターがシシド・カフカ。メンバーは回によって若干異なるが、今回好きなバンド2組のドラマーが出ていたためチケットを取った。ああ、生で音楽を体感しているなあ、とハッキリと思うのは打楽器の音であるような気がしている。音は空気の震え、ということをハッキリと感じさせる。

即興は不思議な緊張感と高揚感と幸福感があって好きだ。こんな状況になる前はよくやっていたコンタクトインプロを思い出した。分からないまま動き、絡み、流れとなり、ハマったり、ハマらなかったり、笑ってしまうほど上手くいかなかったり、上手くいったりする。困ったなあ、流れないなあ、と思ったりするとそこで誰かが流れを変えてくれたりして。

何が起こるか分からないから観客はじっと目をこらし、耳を澄ます。その空気が心地よい緊張感を生む。

今日も明日も明後日も流れていく日々だから、このイマココ感覚は新鮮で、楽しい。

 

るろうに剣心(実写映画)

5月連休前に突如ハマる。

原作マンガ(小説)のアニメ化、実写化に全くいい思い出がない私、漫画の実写はだいたいスルーしてしまう。ちなみにこの映画に関して言えば、原作を読んだことが無かったため、そこになんの思い入れも無い。(なのに嫌う。最早アレルギーである)中学生の時、友人に原作を勧められたのだが、その時の私はいかに史実に近い幕末の物語を摂取するかに没頭していたため、完全にスルー。あの時の友人、誰か忘れたけど、ごめん。読めば良かった。

ハマり方には大きく分けて二種類ある。①気づいた時にはもう止まれないトップスピード型 ②いつの間にか生活を侵食しているじわじわ型

今回の場合は前者である。2日間で既に公開済み3作を観て、数日後公開されたばかりの4作目、最新作は公開2日後に見に行った。ちなみに原作はもうすぐ読み終わる予定。アニメはまだ見てないが、見るかどうか迷っている。

好きな映画にも大きく二種類に分けられる。①小学生の心を持った私が好きな作品②多感な高校生の心を持った私が好きな作品

100%①のお気持ちで見てる。カッコよくて最高なのよ、それ以上でもそれ以下でもない。主演、運動神経がカンストしてるのよ。ついでに顔面の美麗レベルと小顔レベルもカンストしてる。

フィクションだけれども存在しているこの時代背景特有の果たしてどちらが正しかったのか、誰が正しかった問題とか、主役の心情問題とか、色々考えなきゃいけない問題はある。製作者には本当に申し訳ないが、そんな問題たぶん牙突で吹き飛んだ。カッコいいから見たい、感想はそれに尽きる。

最終作を観て現在四日目。殺陣が一番お気に入りなのが最終作なので、2回目を観にいくべきか迷ってる。※画面がずーっと暗く、これは映画館でしか視聴に耐えられないのでは?と思っている。

 

イスラエル・ガルバン『春の祭典

 初、フラメンコ。

 全然分からなかった。消化まで時間がかかるのかと思って待っていたが、1週間経っても分からないままだ。分からなかったけど凄いということは分かった。

 この踊りに対する、この楽曲へ対する自分の目の解像度が著しく低い感じだ。何が凄かったのか、何が分からなかったのか、も分からない。Twitterで検索すると皆絶賛している。オリジナリティ溢れる言葉で、感覚を文章にしている。Twitterの評価=巷の評価ではないと思うけど、このニッチな産業はおおよそ巷の評価なのではないかという気がしてくる。

 結局のところnot for me だったのか?とも思うが、1週間経ってもあるシーンのことや音や踊りのことを考えているということはfor meだったのかもしれない、と思ったりもしている。

 



聴いてるもの

 全人類、Porter Robinsonの新譜を聴け。キラキラしていて、美しく、そして仄暗い。アーティストが次のステップに行く瞬間、というのは何度見ても良い。逆に打破出来ずに燻っている姿は見ていて辛い。でもその現状打破の必要性というのはこちら側が決めるものではないと思う。

 ほのかにじんわり、GRAPEVINEにハマってしまった。ただアルバムによって曲調が全然違うせいか掴みどころがない。新しいアーティストを聴く時に思う『ああ、なるほど。このテンションね』という呟きが生まれないため、毎度毎度新しい何かを摂取している気分になる。特徴が無いわけではないのだが、ふわっとしたイメージにしか結びつかない。


 

 雑記

未年生まれのわたし

 社会人、8年目に突入した。入社した時に同期に「わたし半年で辞めるわ」と大声で言っていたやつが丸7年も同じ会社にいる。同期は1人辞めた。辞めそうにない子が辞めた。辞めそうな私はまだ居座っている。何年入社で、何年年下か分からない後輩が増えてきた。先輩も、同期も、後輩も大体の人がちゃんとしていて、私のようなふわふわした人間がいない。ふわふわした私も中堅の域に入ってきてしまった。一生ふわふわしていたいのに。

 ここ半年くらい上司から「次のステップにいってほしいから」「個別の案件は後輩に渡して、後輩を使って仕事をしてほしい」とか言われるようになった。上司の後ろには、次は管理職になってね、という吹き出しがふわふわ浮かんでいる。

 次のステップ、なんて登りたくない。ふわふわした羊のように平地に住んでいたい。そんなふわふわした私の願望なんて上司の、会社の、社会の鼻息で消し飛んでいく。当たり前だ。退職する人もいるし、稼ぎは出し続けなければならないし、いつまでもぬるま湯には浸かっていられない。でも浸かりたくて、次のステップではなく、次の草原、くらいの気持ちで生きていけないか試行錯誤している。

 

ループ

 去年も同じことをして、同じことを思っていた気がする。状況は悪くなるばかりで、言いたいことも積もっていく。身体の中に怒りや諦めや失望ばかりが降り積もっていく。それでも晴れた5月の空は広く、青く、白く、風は優しく、太陽は柔らかだ。10年後、20年後、私はこの春のことを思い出すだろうか?10年前の3月のことをぼんやりとしか思い出せない私が、思い出せるだろうか?

 このままずっと同じことを繰り返すような気がする。

 春は現在(仮)、夏は過去、秋は◯◯、冬は◯◯

 最近体感と季節をずっと考えているんだが、なかなか◯◯が埋まらない。

 

フォグ

 頭がぼんやりしている。

 結構ぼんやりしている。

 何かを覚えたり、何かを考えたりすることが難しい。昔から記憶力は良くない方だが最近はもっと良くない。

 誰かに言われたことも、自分が言ったことも覚えていなくて、仕事に少し支障をきたしている。誰かに言われたことはまだいい。メモに取れば済む。言ったことはメモれない。これに困っている。

 ハードディスクがパンパンで何かを受け付けることが出来ないみたいだ。誰かにイライラしたりすることも増えた。容量が足りていない。いらないものを一度整理して、隙間を作りたい。が、整理の仕方も分からない。困っている。

第一クォーター

2021年1月〜3月の記録。

 

観たもの

 

・『ダークマター大駱駝艦

 本公演ははじめて観た。昔は舞踏というものがあまり好きではなかった。本人にしか分からないような小さなものをこちらが鑑賞させられているような気がして、分からないこちらを何故かバカにしているような気がして嫌いだった。いつからかまあまあ好きな部類に変化した。いま覚えばきっとどこかでみた舞踏らしきものがあまり上手く?なかったのだと思う。達人は立ってるだけで、そこにいるだけで美しい。

 舞台上の演者の間に目には見えないけど確実にある何かが蠢いており、演者と演者の間を高速で飛び回り、停滞し、渦を巻く。それはこの世を作っているが分かっていない95%のエネルギーなのかもしれない。ダークマターダークエネルギー

 分からないものを見る贅沢。一目見たら分かる情報が溢れているこの世界で分からないものをお金と時間を費やし、見る。とても贅沢。何万円もする食事よりもずっと価値があることだと私は思う。

 

・『アユタヤ』MONO

   久々にお芝居を観る。舞台上でマスクを外して、色んな表情をする役者さんにドキドキした。

 初見の劇団さん。32周年?とかでかなり歴史があるのに全く観たことがなかった。会話劇。普段どういう作風か分からないけど、とても丁寧に作られている印象を受けた。実際にあったタイの日本人町が舞台。大声で何かを訴えるわけでもなく、大声で嘆き悲しんだりもしない。日常が描かれていて、ほっこりとした気分になった2時間と少しだった。希望が見えるようなラストだったのも良かった。予定調和、かもしれないけれどフィクションの中でくらい調和されててほしい、昨今。

 主人公?が言っていた、言葉にして口に出すとこぼれ落ちていく、という感覚よく分かるなあ、同意だなあ、と思った。また正義を口にすることでその正義でないことが許せなくなる、この言葉に少し心臓がひやっとした。

 いつの時代も不寛容な空気がわたしたちを苦しめて、その状況を変えたくて、わたしの正しさを主張し、また新たな不寛容さを生んでいる気がする。

 舞台を見ることは、別の人間の目玉を借りることだと思う。今だからこそ別の目玉で世界を見つめ再解釈することは必要不可欠なのではないか。

 

・『Live in Fukushima2021』ACIDMAN

 感想書いてたら異様に長くなったので別記事。



聴いたもの

 

推しバンド(ACIDMANPeople In The Box、LITE)はなるべく入れないという縛りだけのプレイリスト。発売年月日は問わず、だが最近発表されたものが多い。日本語のラップがじんわり好きだ。Porter Robinsonの音楽が優しくて、キラキラしていて、眩しい。まあまあ戦闘力を高める曲たち。闘うつもりで生きてるのか、私は。

これからも3ヶ月ごとにプレイリストを作りたいと思っている

 

雑記

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『コロナ禍』という言葉が使われるようになって、多分1年くらいが経った。1年経ったのに私はこの言葉をあまり使いたくない。この言葉をはじめて見た時に直感的に何故か使いたくないと思った。

 この"禍"という字面。パソコンで打つと一発変換できないため、禍々しいと打って、backspaceで消す。まがまがしい。という言葉が状況をもっと禍々しくしているような気がして、抵抗がある。禍々しいというと、妖怪や怪物のようなものが浮かび上がる。それか全貌の掴めない巨大な凶悪な何か。

 でもこの言葉は便利で短いワードでこの状況を指してくれる。この言葉を使わないとなると『この新型ウィルスによるこの一連の騒動』とか『新型ウィルスによる様々な影響』とか、長いワードになってしまう。私は『このウィルス騒ぎ』とか書いている。横文字が苦手だから1年経っても、ウィルスなのかウイルスなのかよく分かっていない。禍々しいなんて言葉を使われてウィルスも本望じゃないだろうな、と思う。ウィルスに本望も何も無いだろうけど。

 ただこの言葉を使った方がわかりやすい場合は自分なりに大きな抵抗感を持って使っている。誰に対する何の抵抗なのか全く分からない。

 自らの抵抗感、違和感を自覚することは生きる上で大切な気がしている。大体これを放置する、無いことにすると碌なことにならない。風邪の引きはじめに薬を飲むみたいなものだと思う。

 

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 三年日記を書いている。1ページに三年分の日記が書けるという日記帳だ。最近は全く書いていない。書いていない代わりにこれを書いている。でもたまにはどうでもいい文章を書きたいと思う。眠いとか、頭が痛いとか、食べたものが美味しかった話とか。世の中のブロガーの皆さんは日記も書いているのだろうか?

 

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 3月のはじめから近所でピラティスをはじめた。時々マンツーマン、基本少人数レッスン。身体のクセや捉え直し、学び直しをしているようで楽しい。ここ数年は自分の身体に興味を持って学んでいるつもりだったけど、まだまだ知らないことが沢山ある。このステイホーム期間中、youtubeやらでマットピラティス的なものをやっていたのだが、そもそもの基本姿勢が間違っていたという驚き。やはり習うということは大切。踊りも少しずつ再開して、そのうち表舞台に出たいと思っている。

ここ数年は働きながら踊りの舞台に出ることを目標に踊っていた。舞台も発表会的なやつではなく公演に出ることを目標にしていた。今思えば出演することを目標にしてしまっていて、何も得ていなかったのかもしれない。いや、言い過ぎかな。得たものは沢山あったけど訓練を忘れていた。目標を立てるのが苦手なのに立てるからこういうことになる。

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 毎年春は体調を崩す。去年は2週間ほど熱が下がらず、下がったと思ったら溶連菌をもらいとんでもない苦しみを体験した。一昨年は酷い気管支喘息、その前は帯状疱疹。今年はどうなるんだろうか、いつ具合が悪くなるか戦々恐々としている。

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3月中旬の私の記録と社会の記憶

3月11日に福島にライブを見に行った。その時の記録。

 

『Live in Fukushima 2021』ACIDMAN

 2012年から毎年3月11日に彼らは福島でライブをしている。収益はすべて寄付(東日本大震災の被災地、被災者などに)というなんとも太っ腹なライブである。

 今年は10回目。わたしは初めて参加した。

 大好きなバンドで日本全国どこのライブでも行きたい時には行くのに1度も足を運ばなかった。チケットが売り切れるまで悩んで悩んで結局チケットを取らずに終わる、というのを何度も繰り返した。


 私が行くべきではない、行く資格なんてないと思っていた。彼らがなぜこの日にライブをしているかを語ったときに、震災で辛い思い出がある日だから少しでもいい日だったと思えるように、と言っていた時があった。もうこの言葉を聞いた瞬間に、私は行ってはいけないと思った。神奈川県に住んでる私、たしかに怖い思いはしたけれど、じゃあ翌年のこの日私は何をしていた?何を思った?何を感じた?私にとってこの日は本当の意味では365日中の1日でしかない。

 2、3年前、ふと行ってもいいかもしれないと閃いた。本当に復興に向かってるのか分からない、どんな傷跡が残ってるのかも分からない、そこに住む人がどんな顔をしているのか分からない、分からないまま毎年テレビで流れる追悼という文字を見ているだけでいいのか?そう思った。どこかで取ってつけたような理由だ。何が分かるって言うんだ。どうせ何も分からないまま私はまた私の日々に戻るんだ。そう思う私も確かに存在しているが、そんな風に言い聞かせないと私はこの日その場所に行くことは一生ない。


 今年は何も分からなかった。ただ、いわきへ向かう途中の電車でぐるぐると、この日について何の言葉も出てこない私についてじっと考えた。毎年私はこの日にこの虚無感を感じるのだろうか?


 私のそんな頭の中のぐだぐだとした講釈なんて宇宙のチリになってしまうほどライブは素晴らしかった。来たことを1mmも後悔しなかった。会場に響く音を聴きながら、電車の中で考えたこと、チケットを取るまで考えたこと、去年の3月11日のこと、10年前の3月11日のこと、10年間のこと、じっとじっと頭の中でこねくり回されていた思考が、じんわりと身体の中を広がっていく。被災者でない私は一生、死ぬまで、死んでも当事者ではない。理解出来ないことを、共感できないこと、想像できないことを毎年毎年思い知らされる。仕方がないことだと思った。

 彼らのボーカルありのライブを観るのは、ワンマンでは2019年11月ぶり、ワンマン以外を含めると、2019年のカウントダウンジャパン。やはり歌は、言葉は、強いと改めて感じた。言葉は想像を具体的なものとし、歌は情感に訴えかける。インストの楽曲は思いもしない場所へ私を連れて行ってくれるが、言葉があると地に足を付けたまま想像ができる。近年の楽曲は特にその印象が強い。それは言葉が平易になるのと同時に楽曲の編み目のようなものが複雑になっているからだと推測される。

 ライブに行っていると楽曲に対する自分の視力がグンと良くなる瞬間、みたいなものがある。(以前音楽文で書いた文章もそのグンと良くなった体験である)イヤホンからでは得られない感覚を得る。視力が良くなって見えたものが作った人たち、演奏している人たちが意図しているものかどうか分からない。けれども"私が"見たものがある。

 


 式日は2008年にリリースしたシングル曲である。この曲がこの日一番よく見えた曲だ。毎年春が近付くと聞きたくなる曲。柔らかく、明るい、光のような曲。そもそも式日、という言葉の意味は儀式を執り行う日という意味で、その言葉の印象から春の特別な1日のようなものを勝手に想像していた。儀式まではいかない、けれど特別な日。桜の開花宣言がある日、みたいなイメージだろうか。

 けれどもこの日はその特別さ、みたいなものではなく、連綿と続く毎日が眼前に現れた。雨の日も、風の日も、曇りの日も、運の悪い日も、記憶に残らない日も、一生忘れられない日も、非日常な日も、ただただ続くこの日。この日がレイヤーのように重なり現れる。その透過性の高いこの日の向こうに光がある。それは煌びやかなものではない。見過ごしてしまうような光だ。人気の少ない夕方の電車の窓から差し込み座席の上に線を作る、木々の隙間から差し込み土の上の何かに反射して光る、浜辺の貝殻の裏側に反射する、金色のピアスに反射する、朝、カーテンの隙間から漏れる柔らかな光。

 悲しみに埋もれそうな日々でも、辛さに押しつぶされそうな日々でも、眩しいほど幸せな日でも、この日々の向こうに小さな光が確かにある。この日々が突然消えたとしてもその光はじっとそこにある。

 今日、という日のことを考えた。

 10年という年月を考えた。

 特別な今日という日、いつも通りの今日という日。積み重なる日々を考えた。

 数分の音楽でそんな光景と思考を得た。

 ライブのMCでも触れていたがこの10年という区切りは私たちが勝手に区切りをつけているだけで、本来的にはそこに何の区切りも、意味も持たない。ただ続いていくと思われる日々の中で私はそこに光があるということを忘れずに生きていけるのだろうか?


 2時間弱のライブの中でこんなことをずっと考えていたわけではない。ほんの4〜5分の話だ。残りの時間は、演奏うめえ〜、歌もうめえ〜、横顔かっこいい〜、ピョンピョン一緒に飛び跳ねてえ〜とかそういう浅い感想が頭を占拠してる。あとは早くビール飲みてえな、とか美味しい日本酒飲みてえな、とか。

 単純に生演奏を体感することは体に良い気がしている。今時ライブ配信もしてるし、Spotifyを開けば最新の曲も何十年前の曲も聴けるが、この体感は得られない。情報が時間も空間も飛び越えられるようになったからこそ、時間も空間も制限のあるリアルの価値が高まっているような気がする。多くの人が集まって1つの物を集中して見ている空間というのは独特な"気"みたいなものがある気がしていて、その空間にいることはとても疲れるのだが、そういうものをたまに味合わないと体のどこかしらが腐っていくような感覚がある。

 実際、ライブの翌日の肌の調子はいい。(個人の感想です)

 とにかく早く、ライブハウスで爆音でぐっちゃぐちゃになる日が戻ってきて欲しい。