ヴィヴィッドの記録

日々感じたこと、考えたことを記録してます

一周遅れの人生、そもそも遅れって何?

 仕事の関係で半年間ほどはじめて一人暮らしをした。29歳、都内の大きくはないけど小さくもない会社に勤めている(割に給料悪い)、生まれてこの方ずっと実家暮らしの私、はじめての一人暮らしであった。

   こりゃ、大学生がこぞって一人暮らししたくなるわけだ、と思いました、29歳会社員。

 家族仲が良く、都心に通うのが無理なほど離れたところに家があるわけではなく、可愛い犬が2匹いて、電車で15分ほどで神奈川県の中心に出られることもあり、今までほとんど実家を出たいと思ったことがない。むしろどちらかというとこのままのうのうと実家で暮らしたい。そんな私が仕事の都合で他県寄りの東京で一人暮らしを命ぜられた。


 29歳にしてはじめて生活をした気がしている。掃除をして、食事を作り、洗濯物を洗う。また快適に生きるために色んなものを揃えて、健康に生きるため時間配分を行い、日々を過ごす。今まで目を瞑ってサボって甘えきっていた諸々が眼前に現れた。

 生活は楽しかった。大変だった。

 きっとこの程度の気付きは一般的に10年くらい前、遅い人で5〜6年前に終えているのだろう。私はいつだって一周遅れだ。

 歩くペースは早いはずなのに、ぼうっとしたり、寄り道をしたり、別のコースに入ったり、そんなことをしている間に一周遅れてしまう。

 一周遅れの私は最近、どう働くべきか、今後の人生どうするべきかということをぼんやり考えている。大学を卒業して、専攻とは全く関係ない仕事に就き、全く興味のない部署に配属され、早6〜7年。あっという間に中堅と言われる世代が近づいてきた。入社して、興味をもって勉強しながら働いていれば今頃それなりの知識は身につけていただろうが、そんなことをしないまま7年も経っているため、『わたしには知識も技術も人脈も何もない。絶望だ』という気持ちになる。もっと早く自分の立っている場所を、生活している場所を認識すれば良かった。だが後悔しても反省する事はなく、遅れを取り戻すために勉強に励むなんてことはしない。だって興味がないのだもの。

 そこで浮上するのがどう生きていくべきかという問題だ。

 自分の性質上、結婚し妊娠し休職、出産、子育てしつつ働くというルートに入る可能性はほぼ0だ。では今の会社でバリバリ働くかと自問自答しても、想像すら出来ない。じゃあ、他の職に……とも思うが前述の絶望に戻る。

 そして気付く。ああ、これも気付くのが遅かった。また自分を見つめ直し、人生というものを考え、自分を分解していく作業に向き合うには到底気力も体力もない。

 こうやって生きる時間を消耗していくのだろうとぼんやり絶望している。ぼんやりと薄暗いような、ただの日影のような日々を過ごしている。


 最近、母がダンススタジオでダンスを習い始めた。毎週仕事終わりに習いに行き、「あ〜今日も難しかった〜」と言いながら家の扉を開け、食卓に着くなり、ビールを飲む。その姿に、手垢のつきまくった言葉ではあるが、何事も始めるのに遅すぎるということはない、という言葉を思い出し、その言葉をしみじみと噛み締める。

 わたしも薄ぼんやりしてるのではなく、好きなことを始めてみようかな、と思う。

 遅れは感じるが、遅れってそもそもないのかもしれない。

今年の目標。

 昨年はどんな年でしたか。

 出来なかったことがたくさんあった一年だった。我慢したことがたくさんあった一年だった。今までとは違った一年だった。

 わたしはぼんやりと平穏に生きていました。ぼんやりとし過ぎていてあまり記憶がない。要所要所で怒ったり、悲しんだり、笑っていたりしていた気がするけれど、そのどれもが世間の雰囲気とは離れてぼんやりしていて、平穏で、退屈。

 2021年になってもうすぐ1ヶ月。

 忘れないように今年の目標を書こうと思って、久々にGoogleドキュメントを開いている。


(1)違和感をちゃんと口にする
(2)怒りたい時に怒る
(3)英語を勉強する
(4)物を買う
(5)身体を作り直す
(6)本を読む

 以上6点が2021年の目標です。


(1)(2)に関しては人生の課題かもしれない。子どもの頃から怒ることが苦手で、嫌なこと言われても笑って誤魔化してしまうことが多い。

 怒ることに対して、私は瞬発力がない。そして持続性もない。アンガーマネジメントという言葉をよく聞くようになった最近だが、逆にマネジメントし過ぎて人間としてどうなんだろう、と思っている。基本事なかれ主義な私が悪い。

 いつだったかの会社の飲み会で、上司が同じ職場で働く40代くらいの人のこと(その人はその場にいなかった)を「なんであの人結婚しないんだろうね?噂だけど、あの人ホモらしいよ」と笑いながら言っていた。で隣に座っていた上役もその噂話に乗って色んなこと喋っていた。

 もう書いているだけで気分が悪くなる話で怒りポイントが何十個も見つかりそうな言葉だが、私はその時「そんな噂聞いたことないっすよ〜そんなことないんじゃないんですかね〜ハハハ〜」としか返せなかった。言ってるそばから私は私自身にムカついていたし、上司にももちろん怒っていたが、何も言えなかった。帰りの電車で一人で反省会をした。

 こういうことがたくさんある。

 こう思ってるそばからさきほど上司に「お前」(彼は親しみをこめて友人に話しているような口調で言っていた)と言われて、ムカついたのに何も言えなかった。普通に返事をした。

 前途多難な目標だがコツコツと少しずつ表明していこうと思っている。


(3)人生何度目の目標かわからないが今年こそやる。目標はコロナがおさまって海外旅行にいけるようになったときに最低限のコミュニケーションが取れるレベル。好きなアーティストがSNSで質問募集してるときに書き込めるくらい、回答を理解できるレベル。


(4)物を買うのが苦手だから。自分の消費はコト消費が多すぎる。物でテンション上げるということを知ろう。


(5)怪我して筋肉が消えたから。以上。


(6)気付くとスマホに向き合ってしまい、本を最近読んでいない。本を読まないと文章も書けなくなる。読みたい本をちゃんと読む。

 

 果たして今年の年末どれだけの反省がならぶか楽しみです。

 あと目標でなくタスクだけど、noteに書いたものをこちらに移動させたいと思います。

自分の知らない感情が生まれた時の対処法

対処法が分からない。

怒りでも、悲しみでも、悔しさでも、裏切られたという思いでも、諦めでも、絶望でも、

そのどれでもあるような、そのどれでもないようなそんな物を昨晩から抱えている。

 

私は感情の起伏をあまり表に出さない。出せない。そしてあまり起伏がない。

そんな私が何とも言えない、何にも似ていない感情を抱えている。

雨が一粒落ちてくる、その一歩前の空気みたいな、湿気を含んだ二酸化炭素の多い空気が身体を覆っている。

 

理解されていると思っていた私の傲慢さ、怠惰さが招いた感情だ。

誰かを好きになることも嫌いになることもあまり無いから、人間関係は安定していて、他人の心は自分が操れるものではない、と心底思っているから相手に期待を寄せることも、逆に裏切られた!という思いを抱くことも少ない。

人間関係ならそう思えるのに、私が作ったものが絡まるとどうしてこんなに乱されてしまうのだろう。

 

そういえば、学生最後の冬にもこんな感情を抱いていたかもしれない。

あの時にも色んな思いがあって、感情があって、山手線で大好きなアーティストの曲を聴きながら泣いた。今日、世界が生まれ変わる、と叫ぶ歌声を聴きながら泣いた。その日は何も起きなかったし、状況は何も変わらなかったけど。

 

理解されているという思い込み、その自分の浅はかさに腹がたつ。伝わらないもどかしさ。

 

この感情の対処法をわたしは本当は知っている。

また同じように当たるしかないのだ。

当たろう。

 

書きながらあの冬のことを思い出して、後悔が沢山あることに気がついた。

今でもあの時に聴いた曲の響き方と空席ばかりの山手線の光景が、ついこの間のように思い浮かぶ。

 

 

 

つくる、造る、作る、創る、取り繕う

昨年から年に一度行なっているグループ展が終わった。

グループ展は高校時代からの友人達と行なっている。

高校生の時、こんな年齢になっても仲がいいこと、作品を持ち寄って展示会をすることなんて全く想像していなかった。

あの頃はそれぞれがそれぞれでやりたい事をやっていたし、それぞれやらなきゃいけない事もあったし、自由だったけど自由じゃなかった。これからどうなっていくのか、どうしていきたいのか、そんなことばかり考えていた。未来のことばかり考えていた。

 

27歳になった。

アラサーである。

仕事もしている。しかもちゃんとした企業で、フルタイムで。(ここも全く想像していなかった未来だ)

わざとなのか、無意識なのか、逃げなのか、分からないけどあの時よりもわたしは未来を見ていない。

ベッドに横たわって、目を閉じて目を開ければ明日だし、それが続くし、そうやって年を重ねていくのだなあ、と思ってる。

漠然とした未来について思いを馳せることはない。明日が来ないことは時々考えるけど、いつか死んでしまうことは時々考えるけど、少し先のぼんやりとした何かを考えることはない。

この変化が何なのか分からない。

諦めなのか、大人になるってことなのか、子供のまま大人になっているってことなのか。

 

そんなことはどうでもよくて、そんなことを書きたくてこのページを開いたわけではなく。

自らの想像力を持って何かを作るということはとても楽しいし、面白いし、刺激的だと思った。

同じテーマなのに表出する形はそれぞれ違っていて、この人の見ている世界はこんななのかー、と驚く。10年の付き合いなのに、私は彼女の見ている世界を知らなかったのだ。

そういえば昔、私の見ている赤色と他人が見ている赤色が同じなのか、違うのか、とにかく気になって仕方がなかった。

その疑問の答えは今もよく分からない。

大学の認知心理学の授業でやった気がするが詳しく覚えていない。その頃わたしは環境心理学と社会心理学社会学、宗教学に夢中だった。

 

せっかくのお盆休みなのに作品を作り、作品を展示し、在廊し、海にもプールにもフェスにも行かず何をしているんだ、とも思うが、来年は何を作ろう、と考えている自分がいる。

 

社会の仕組みから一歩離れて作品を学生みたいに自由に作る。

しかし、大人な自分が時々現れて、発想を取り繕う。

手を離れてそれを見てみると、何だか出来上がったものに違和感を覚える。

これが27歳の感覚なんだろうなあ、と思う。

 

それから来年は夏フェスにも海にもプールにも行きたいなあ、と思う。

 

 

言葉の行く先

  大事なことは誰かに伝えたくない、と思い始めたのはいつからだっただろう。

  誰かというのは、PCの、スマホの、画面の向こうにいる誰かは含まれない。誰かとは、名前を知っている、顔を知っている、性格もなんとなく分かっている、あなたのことである。

 

  例えば映画やお芝居を見て、深く思ったことがあったとする。

   見終わった後に感想や所見を言い合うとき、わたしはこの深く思ったことを言わない。言わないとしているわけではなく、勝手に言えなくなってしまっているのだけど。

   わたしのこの思いは、わたしだけのものであり、誰かに、あなたに渡したくない、とわたしは深く思うのだ。

   ここに書いていることも深く思っていることなのだけど、あなたはここに実在しないので、わたしはペラペラと言葉を打つことができる。

 

  思えば、日々の生活で色々思うところはたしかにある。あなたに言いたいこともある。しかしわたしはあなたにそれを言えない。

  どうして言えないのか。

  あなたの拒絶を想像してか、あなたの困った顔を想像してか、伝わらないもどかしさを想像してか、自己防衛か、そのどれでもあるような気がするし、どれでもないような気もする。

   言えなかった言葉はどこへ行くのか、その行き先を最近はよく考える。

   身体のどこかへ沈澱しているのであればそれは素敵なことだな、と思う。

   しかし発しなかった言葉は別にこの世の中に必要のない言葉で即座に消えてしまうのであれば、こんなに虚しいことはないと思う。

 

 

 

   わたしは意見するのが比較的得意な方である。会議でも思ったことは口にするし、友人と喋っていても、はっきりと物を言う。

   だからきっと周囲からわたしは言いたいことを言えていいなあ、と思われてると思う。

   勿論、言いたいことは言っている。

   しかし、言いたいことを言ったあとの帰りの電車の中で、言わなかった言葉がずんと積もっていることに気付く。

 

   誰かと向き合わなきゃいけない時に圧倒的にわたしに足りないのは、この深く思ったことを言い表すことなのかもしれない。

   果たして言い表すことが必要なのか、不要なのか、それは分からない。

    分からないけど、足りないと思う。

    言わなきゃいけない言葉、言いたい言葉、伝えたい言葉、言わなくてもいい言葉、言えない言葉、言いたくても言えない言葉。

 

    言わないという選択をしてから行く先を想像したいと今は思っている。

 

 

頭の中の枠組みを取っ払うこと

前記事に書いた、クリエイティブライティングに参加してから、びっくりするくらいするすると書くことが出来ている。

 

平日ランチで一人になれた時、次の用事まで時間がある時、特に気張らずにノートを開いて、つるつると書いている。

 

思えば学生時代のわたしはそうだったな、と思い出した。授業中眠くなった時も脚本の締め切りに追われてる時もとりあえずノートを広げてつるつると書いていた。

 

もしかしたら近いうちにまた書けなくなるかもしれないけど、その時に何をしたらいいのか、なんとなく分かるような気がする。

 

どうして書けなくなっていたのか、考えてみると単純だった。

書くという行為が頭の中で強固な枠組みのなかにあってその枠組みに邪魔されていた。

書くには

テーマがなくちゃいけない。

伝えたいことがないとダメ。

戯曲が書きたい。

起承転結がないとダメ。

絵的に単純だとつまらない。

などなど。

過去の上手くできた経験からそう思って、そう思い込んでた。

 

別にどこに出す訳でも、締め切りが決まっている訳でもないのに勝手に。

 

そんな枠組みを取っ払うことをあの講座はしてくれたのだと思う。

今書いているもののクオリティとかそんなことよく分かんないけど、書いてて楽しいなあ、と思うし、もっと書きたいし、もっと上手くなりたいなあ、と思う。

 

また分からなくなったらまた踊ってふわふわ思いつくまま書き殴ればいいや。

 

書くことと身体のこと

4月28日(土)

身体を使って書く クリエイティブ・ライティング講座に参加しました。

 

書きたいなあ。とここ最近思っててもなかなか進まなかったり、鬱々としていたり、そんな状況を少し改善できるかも?そんな思いと

身体と書くことの繋がりに興味があったため参加しました。

 

大学卒業してから全く書いていなかったのだけど、なんとか、書くことが出来ました。

 

・やりたくないことはやらなくてOK

・きちんと頑張らなくてOK

・批判をしない

・好き、やりたいことをやる

 

このルールの安心感たるや、素晴らしいものです。

 

様々なワークをやったのですが、

客観的に自分の書いたものを見て、

自分の学生の頃の文章と今の文章、変化していたのがとても面白かったです。

その間、全く書いていなかったのに……。

 

身体感覚を言語化する力が前よりもついているような?

ただ振りを踊るダンスでは自分の身体感覚を喋ることってほぼないけれど、

コンタクトやインプロのワークをすると必ずと言っていいほど、身体感覚を言語化してシェアする時間がある。

この経験がわたしの文章を変えた気がします。

 

今回の講座で、身体のワークが前半にあったのも普段閉じられている身体感覚を呼び覚ますためのものだったのかな?と思ったり。

 

とにかくなんやかんや考えて感じだけど、

書くことを思い出したので、とりあえず続けてみます。