ヴィヴィッドの記録

日々感じたこと、考えたことを記録してます

3月中旬の私の記録と社会の記憶

3月11日に福島にライブを見に行った。その時の記録。

 

『Live in Fukushima 2021』ACIDMAN

 2012年から毎年3月11日に彼らは福島でライブをしている。収益はすべて寄付(東日本大震災の被災地、被災者などに)というなんとも太っ腹なライブである。

 今年は10回目。わたしは初めて参加した。

 大好きなバンドで日本全国どこのライブでも行きたい時には行くのに1度も足を運ばなかった。チケットが売り切れるまで悩んで悩んで結局チケットを取らずに終わる、というのを何度も繰り返した。


 私が行くべきではない、行く資格なんてないと思っていた。彼らがなぜこの日にライブをしているかを語ったときに、震災で辛い思い出がある日だから少しでもいい日だったと思えるように、と言っていた時があった。もうこの言葉を聞いた瞬間に、私は行ってはいけないと思った。神奈川県に住んでる私、たしかに怖い思いはしたけれど、じゃあ翌年のこの日私は何をしていた?何を思った?何を感じた?私にとってこの日は本当の意味では365日中の1日でしかない。

 2、3年前、ふと行ってもいいかもしれないと閃いた。本当に復興に向かってるのか分からない、どんな傷跡が残ってるのかも分からない、そこに住む人がどんな顔をしているのか分からない、分からないまま毎年テレビで流れる追悼という文字を見ているだけでいいのか?そう思った。どこかで取ってつけたような理由だ。何が分かるって言うんだ。どうせ何も分からないまま私はまた私の日々に戻るんだ。そう思う私も確かに存在しているが、そんな風に言い聞かせないと私はこの日その場所に行くことは一生ない。


 今年は何も分からなかった。ただ、いわきへ向かう途中の電車でぐるぐると、この日について何の言葉も出てこない私についてじっと考えた。毎年私はこの日にこの虚無感を感じるのだろうか?


 私のそんな頭の中のぐだぐだとした講釈なんて宇宙のチリになってしまうほどライブは素晴らしかった。来たことを1mmも後悔しなかった。会場に響く音を聴きながら、電車の中で考えたこと、チケットを取るまで考えたこと、去年の3月11日のこと、10年前の3月11日のこと、10年間のこと、じっとじっと頭の中でこねくり回されていた思考が、じんわりと身体の中を広がっていく。被災者でない私は一生、死ぬまで、死んでも当事者ではない。理解出来ないことを、共感できないこと、想像できないことを毎年毎年思い知らされる。仕方がないことだと思った。

 彼らのボーカルありのライブを観るのは、ワンマンでは2019年11月ぶり、ワンマン以外を含めると、2019年のカウントダウンジャパン。やはり歌は、言葉は、強いと改めて感じた。言葉は想像を具体的なものとし、歌は情感に訴えかける。インストの楽曲は思いもしない場所へ私を連れて行ってくれるが、言葉があると地に足を付けたまま想像ができる。近年の楽曲は特にその印象が強い。それは言葉が平易になるのと同時に楽曲の編み目のようなものが複雑になっているからだと推測される。

 ライブに行っていると楽曲に対する自分の視力がグンと良くなる瞬間、みたいなものがある。(以前音楽文で書いた文章もそのグンと良くなった体験である)イヤホンからでは得られない感覚を得る。視力が良くなって見えたものが作った人たち、演奏している人たちが意図しているものかどうか分からない。けれども"私が"見たものがある。

 


 式日は2008年にリリースしたシングル曲である。この曲がこの日一番よく見えた曲だ。毎年春が近付くと聞きたくなる曲。柔らかく、明るい、光のような曲。そもそも式日、という言葉の意味は儀式を執り行う日という意味で、その言葉の印象から春の特別な1日のようなものを勝手に想像していた。儀式まではいかない、けれど特別な日。桜の開花宣言がある日、みたいなイメージだろうか。

 けれどもこの日はその特別さ、みたいなものではなく、連綿と続く毎日が眼前に現れた。雨の日も、風の日も、曇りの日も、運の悪い日も、記憶に残らない日も、一生忘れられない日も、非日常な日も、ただただ続くこの日。この日がレイヤーのように重なり現れる。その透過性の高いこの日の向こうに光がある。それは煌びやかなものではない。見過ごしてしまうような光だ。人気の少ない夕方の電車の窓から差し込み座席の上に線を作る、木々の隙間から差し込み土の上の何かに反射して光る、浜辺の貝殻の裏側に反射する、金色のピアスに反射する、朝、カーテンの隙間から漏れる柔らかな光。

 悲しみに埋もれそうな日々でも、辛さに押しつぶされそうな日々でも、眩しいほど幸せな日でも、この日々の向こうに小さな光が確かにある。この日々が突然消えたとしてもその光はじっとそこにある。

 今日、という日のことを考えた。

 10年という年月を考えた。

 特別な今日という日、いつも通りの今日という日。積み重なる日々を考えた。

 数分の音楽でそんな光景と思考を得た。

 ライブのMCでも触れていたがこの10年という区切りは私たちが勝手に区切りをつけているだけで、本来的にはそこに何の区切りも、意味も持たない。ただ続いていくと思われる日々の中で私はそこに光があるということを忘れずに生きていけるのだろうか?


 2時間弱のライブの中でこんなことをずっと考えていたわけではない。ほんの4〜5分の話だ。残りの時間は、演奏うめえ〜、歌もうめえ〜、横顔かっこいい〜、ピョンピョン一緒に飛び跳ねてえ〜とかそういう浅い感想が頭を占拠してる。あとは早くビール飲みてえな、とか美味しい日本酒飲みてえな、とか。

 単純に生演奏を体感することは体に良い気がしている。今時ライブ配信もしてるし、Spotifyを開けば最新の曲も何十年前の曲も聴けるが、この体感は得られない。情報が時間も空間も飛び越えられるようになったからこそ、時間も空間も制限のあるリアルの価値が高まっているような気がする。多くの人が集まって1つの物を集中して見ている空間というのは独特な"気"みたいなものがある気がしていて、その空間にいることはとても疲れるのだが、そういうものをたまに味合わないと体のどこかしらが腐っていくような感覚がある。

 実際、ライブの翌日の肌の調子はいい。(個人の感想です)

 とにかく早く、ライブハウスで爆音でぐっちゃぐちゃになる日が戻ってきて欲しい。